総括じゃなくて事業についての情報開示を求めてるだけなんだよね

総括が難しいとして,罪を犯した人々,罪を犯した組織を支えてきた人々が,何かしら贖罪意識を持つことは内面的に重要であることは否定しないけれども,いわゆる民事・刑事での責任を超えて社会的私刑を課すことは,却って思想の先鋭化を招いたり,社会復帰を妨げる意味で公共の福祉に著しく反するのではないだろうか.

カルト教団を抜けて、過去と向き合う、というのは、それは時間がかかるのは間違いないわけで、個人的には実のところそんなのを急かせるつもりはないんだよね。ただ、「松永英明」という名称は、本人にとっては「経済基盤を確立させて脱会する足掛かりとなった」ものなのかもしれないが、外からみれば、それはほとんどの部分が「オウム出家信者としての経済活動」でしかない。

もちろん、一般論としては、彼らが労働や事業を得て収益を得ることは否定できるものでもなく、実際にそれらが無ければ被害者への賠償も成り立たない。ただ、彼が選んだのは、「メディア」という場なわけで、そこは多かれ少なかれ、イメージを消費する場であり、その文脈で「オウム出家信者」というのは、もちろんネガティブな要因だ。さらに、人はメディアとのかかわりのなかで心を動かされるわけで、そこにカルトが意図した操作を持ち込んでいたとしたら、それは大衆にとっては恐怖の事態だ。

「オウム出家信者が(正体を隠して)書いたもの」は、みんなその種の大衆操作だと思うことは、単に妄想だし、「ケガレ」的な感情だとは、思う。ただ、彼が翻訳ではあれ、自己啓発書というジャンルを持っていることは、それはやはり特別な事態だ。「自己啓発」は、「俗」の実利のために「心」をチューンするようなものだから、その目的において宗教とは異なる。とはいえ、社会問題となるような自己啓発セミナーがそうであるように、「チューンの作業」を自己目的化させて他人を支配する、という状況は存在しうるわけで、超越的な目的のためと信じてテロ行為を行った宗教団体の構成員の行為が「心のチューン」と関係するとすれば、それは警戒されざるをえない。好意的にみれば、この活動こそが彼の関心を超越的なものから「俗」へとシフトさせたのだとしても。

彼は、今後も「松永英明」という名義でライターとして「事業」を行っていくということだから、彼は、彼の経歴を知った人々の警戒を解かなければならない。その場合に、「松永英明」名義の事業が過去、どれだけ教団と関係があり、あるいは無かったか、ということは、客観的に明らかにされなければ、人々は安心して彼の書いたものを手にとることはできないだろう。本人が「無関係」と強弁するだけでは足りない。

ここ最近、ここでいろいろ書いているのは、そういう意図でのことです。一応、自分のサイトのblogよりもはるかに読まれていない場所でやることで、一定の配慮はしているつもり。