「河上イチローはオウムを偽装脱会していた」というのはありえない

と、あえて言ってみようか。これは簡単な話だ。

河上イチロー」というのは、結局のところ、F(イニシャル)という人間が見せていた「キャラクター」に過ぎない。ペルソナと呼ぶにも軽すぎる存在だとさえ言える。それはあくまでも、アングラ系総合情報サイトDer Angriffというサイトの管理人としての設定された人格をFが操っていたものであって、Fそのものではない。だから、2000年10月のサイト閉鎖と同時に、その設定を「消滅」させた、とさえ当時は宣言したりしていたわけで。キャラクターとしての河上イチローは、オウム信者であった、という過去を持たない。よって、偽装云々以前に脱会しようもない。ただ、キャラクターの遣い手がオウム信者である、という事実の発覚がキャラクターの存在を維持するのには致命的だった、ということに過ぎない。

Fという人間が1995年末から2000年当初まで脱会していたのか、それとも作為的な偽装だったのか、というのは、Fが国賠訴訟において、「元信者」として原告となっていたという事実が存在しているという意味において公的な関心事であろうし、また、河上イチローという人形を操る人形遣いの意図がいかなるものであったか、という面においての関心事でもあろうが、あくまでそれはFについてのことであって、河上イチローについてのことではない。まぁ、そのうち、当人が現時点での解釈を語ることにはなるのだろう。

...ところで、「河上イチロー」がキャラクターに過ぎない、という観点からは、「ムッタ・デーヴァ」や、「松永英明」が、どの程度、素のFに近かったのか、あるいは、単にペルソナなのか、それよりもさらに表層的なキャラなのか、ということもまた関心事たりうるだろう。河上イチローに比べれば、素に近いところにあるような雰囲気を感じるが、いずれせによ判断材料を私は持たない。ただ、私の主観では、Fはその本質においてミーハーであって、「河上イチロー」から「松永英明」に至る変化というのは、結局のところ流行の波に乗って、その時に応じた姿を纏っているだけなのでは、という気がするのだがどうだろうか(Wikipediaで私が行った概要記述は、そういう解釈を暗黙においている)。こう考えると、松永としてのオウム時代についての話題の記述につきまとう、あきれるほどの「軽さ」も、Fがすでにバレていても実名の記述を極端に忌避することも、素直に納得できるんじゃないかと思う。

ってことを、オウムひとまとめ: 黒崎夜話を見て書いてみたくなった。